今こそポリコレを

 これを記している3月15日時点で最も熱いトピックと言えば、ウクライナ情勢である。ロシアがウクライナへの軍事侵攻を敢行して以来、この話題は全世界に、全世界経済へ影響を与えている。今回は早い段階で経済制裁に言及があり、SWIFTという国際銀行間決済システムからロシアを締め出すという画期的な制裁が打ち出された。結果としてロシアとの真っ当な商取引は不可能となり、ルーブルの価値は暴落した。反対にロシアからの供給が途絶えたエネルギーの価格は上昇しており、それが日本においての最重要懸念となっている。また停戦交渉も引き続き行われていると聞くが、ウクライナ武装解除をロシアが要求している限り妥結できるとは到底思えず、今後の見通しは非常に暗い。後から振り返ってみれば歴史は極めて単純化されて記載されると思うので、私も一筆書き残したいと思った次第である。

 今回の紛争において印象的なのは、徹底的に情報を検閲し武力を用いてでも統制を図ろうとするロシアと、ウクライナ大統領を筆頭にSNSなどで膨大かつ野放図な情報開示を行う西側諸国という対比だ。ウクライナサイドからは軍事機密かと思えるような情報さえネットニュース経由で拡散されている。西側はメディアは当然のように、この膨大な情報開示を絶対善としており、統制を図るロシアを悪しざまに罵っている。正直に言って、実際の血が流れる国家間の戦争というものに対して、このような無制限の情報開示が有利に働くか、そして平和に導けるかは疑念がある。無論、自由に発言できることは良いことだろう。しかしその情報によって誰かの命が危機にさらされる可能性もまた孕んでいる。

 ジャスミン革命のように、国家内の内戦に対して外部からの介入を求めるという点においてはSNSは非常に機能したと思えるし、裏を返せば既存のメディアは所詮「体制側」であり、肝心な時には洞が峠を決め込むという事が分かったといえる。しかし今回のような世界大戦への火種ともいえる状況で、参戦世論を形成することは不穏でもあり、統制無き情報発信が最終的に誰に利するかは現時点で何とも言えないように思える。さらに悪いことに、ツイッター社・メタ社などのSNSではロシアを擁護する類の言論を封殺していると聞く。自社のポリシーを明言することなく他者の言論を封殺することは、意志を持った情報統制より危険だと私は考える。現状はウクライナという国に対して西側諸国がヒト・モノ・カネのリソースをつぎ込むことで戦線が維持され、結果ウクライナの国土のみが完膚なきまでに荒らされるという皮肉な結果となっているが、一旦形勢が動いたときに、西側諸国でどのような過激な世論が形成されるか、それによってより危険な方向に舵が切られないか、プーチン大統領の意志のみで戦争遂行されているロシア側と同様に心配でならない。

 「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がある。「政治的妥当性」ないし「政治的正しさ」とも訳され、ポリコレと略して使われる。様々な意味に使われる用語ではあるが、中核的には何らかの差別意識を前提とする用語を、より「正しい」言葉へと置き換える動きを指すらしい。例えばコンピュータのハードディスクを2台接続する際に、技術的に主たるディスクを決める必要があり、「マスター」そして奴隷を意味する「スレーブ」という表現を使っていた。これは今では「プライマリ」「セカンダリ」つまり1つめ、2つめというニュートラルな表現に置き換わっている。技術用語に限らず、新しい概念を表す用語には往々にしてクセの強い表現が含まれがちであり、それが世間一般へと膾炙されていく途上のどこかで、よそ行きの言葉に改めてやる必要が出てくる。格闘ゲームやソシャゲの世界でも同様に「誰でも当然のように習得すべきスキル・持っておくべきアイテム」という意味で「人権」という用語が使われていたが、これを一般社会にそのまま持ち出して炎上するということもあった。これ自体は必要なプロセスだと思う。しかしポリコレという言葉自体はある種の「言葉狩り」として一般的に否定的な文脈で使われがちであり、「不寛容」の象徴として語られる。

 ポリティカルとは「政治的」という意味だ。政治に対する考え方は人それぞれだと思うが、私は政治とは「理論ではなく妥協を中心とした意思決定プロセス」と捉えている。人がことさら「政治的妥結」という言葉を使う時には、一般的には甲論乙駁の議論の結果ではなく、大義の無い玉虫色の折衷案というニュアンスを伴うだろう。決して悪い意味ではなく、妥協とはある種の寛容性であり、多様性をもつ意見の集約、理知的な人間にのみ許される平和的解決だと考えている。今回のウクライナ問題において少なくとも今必要なのはこの手の「寛容性」である。ウクライナ側が殴られている状況を看過しろというつもりは毛頭ないが、「ロシア側に対してのはあらゆる罵詈雑言が許され、ロシアを擁護したものも対象に含んでよい」というのは政治的に正しくないだけでなく、問題の解決に凡そ貢献しないという意味においても大いに非難されるべきである。

 ロシアを擁護したいという論客は、まずこのロシアに向けられる「ヘイトスピーチ」に対して抗議するのが良いかもしれない。どちらの陣営であれ、感情を煽るような発言はそれ自体が戦争の火種となり得る。この一点においてのみ、ロシアの言論封殺は評価できる。今回の教訓の一つとして、戦争中におけるSNSの使い方について国際的な議論とガイドラインが制定されることを望む。

 

ただの風邪

新型コロナことCOVID-19オミクロン株が猛威を奮っているらしい。正月を開けて新規感染者数が去年の最高値を余裕で飛び越えている。2年近くコロナ対策を繰り広げてきた結果、コロナに対する「相場観」のようなものが形成されているらしく、今回の増加率は明らかに去年の相場を急激に上回ったため、様々な対策が後手に回っている印象を受ける。去年の6・7月頃はオリンピックの開なにもないに催可否を巡って、マスコミがIOCバッハ会長の動向を追い回していたはずだ。翻って冬季五輪までもう一ヶ月を切っているはずなのだが、何故か開催の是非を問う声は日本からは出てきていないようだ。中国の女子テニス選手に絡むスキャンダルが新疆の人権問題と結び付けられ「外交的ボイコット」なる不可解な概念が発生したのだが、これが完全に裏目に出ている。選手派遣に関しては、日本側と中国側で疫学的な懸念がある。この解決には相互の信頼が必要不可欠だ。もし選手に陽性反応が出た場合に彼我の責任範囲の明確化と感染拡大対策の方針決定の中で「選手団を守る」「開催国を守る」の線引きをする際にどうしても日中間の手打ちが必要になる。譲った側は国民を納得させる理屈が必要だからだ。日本はもともと首相ましてや皇族の派遣は予定していなかったと聞いているが、「外交的ボイコット」という概念が出来てしまったために、そこに敵意を見いだされないとも限らない。何もないに越したことはないのだが、小さくない火種になりそうな懸念を感じる。

コロナに関しては十分な説明が伴わないまま様々な対策と言説が飛び交っている。昨年末頃は「デルタ株」というキーワードで説明がなされていた。デルタ株は感染力とともに重症化リスクが高く、ワクチン接種を急ぐ理由の一つとされた。かたやオミクロン株は口々に「感染力が高いが重症化リスクが低い」と喧伝されている。この一点が、当初の感染封じ込め対策を有耶無耶にしつつ、経済的打撃の大きい人流抑制策に踏み切らない理由とされている。

今回の大流行の初期から、「コロナはただの風邪である」という表現がたびたび登場し、そのたび様々な角度から罵詈雑言が浴びせられてきた。改めて考えたい。

一般に風邪症候群というのは、インフルエンザと対置する概念として、おもにライノウイルスもしくはコロナウイルスによる上気道感染症状の総称と考えられている。今般わざわざ「新型」とつけているように、コロナウイルス自体は風邪の原因となる一般的な病原体である。周知の通り風邪は伝染する。感染力は決して低くはない。そして風邪は肺炎など劇症を併発しうる侮れない病気である。「うつは心の風邪」という言い方も、ありふれた病気であると同時に命の危険すらあるという警鐘の意味合いがある。

この意味でいうと、感染力が高く重症化しにくいと言われるオミクロン株は、語義的には「ただの風邪」と呼ぶべきだと考える。こう書くとおそらく多くの読者の気分を害すると思われるが、直近の対策でことさら「重症化はしない」点を強調されるたび、改めて原点に立ち返る必要があると私は言いたい。ここ数年より前にも風邪をこじらせて亡くなった方は大勢いる。「ただの風邪」にもワクチンや特効薬はなく、これは感染対策を整えれば防げた死であった可能性はある。そもそも人は様々な理由で日々死んでいる。特定の疾患での死者をことさら上げたり下げたりすることは本質的ではない。オミクロンが概ね治る病気であるという前提に立つのであれば、それはもはや「ただの風邪」であり、マスクをして風邪薬を飲んで寝る従来の形に戻るべきだろう。

もちろん弱毒であるということの結論を出すのは時期尚早かもしれない。そう考えるのであれば、やはり緊急事態宣言などの人流対策を取るべきではないだろうか。今の世間のスタンスはあまりに中途半端であり、ここ1年のコロナの相場観に引きずられているように思える。要するに、外が寒くて乾燥しているのであれば風邪対策をとるのは「ウィズアウトコロナ」からの当たり前であり、冬は風邪が増えるのもまた然りである。「ただの風邪」に用心する心構えこそが本質だと考える。

負けの美学

ブログを始めるにあたって下記たかってネタがいくつかある。そのうちの一つについて書き始めたい。自分の考えをまとめるために書くもので、今後何回かにわたって書きたいテーマである。まずその意思表示として本稿を書き上げたい。

 

いろいろなジャンルにおいて「プロ」と「アマ」という区別が存在する。一般的にはプロの方がアマよりも上位とされる。この定義、二つを分ける決定的な違いについては、「技量の違い」「収入(生計)の有無」など色々な考え方がある。例えば囲碁将棋の世界ではプロ棋士の定義がはっきりしており、プロ昇段試験は狭き門であると同時にその腕前を担保するものとなっていると聞く。碁会所の亭主はたとえそれで生計を立てていて、いくらか初心者に稽古をつけているとしてもプロとは呼ばれない。大相撲の世界も同様に、新弟子審査に合格しただけではプロではない。本場所を勝ち番付を上げ、十両にならないと相撲協会から給金は出ないそうだ。それ以下の番付はあくまで研修生扱いであり、手当は出るものの一人前の関取ではないという掟がある。その他スポーツ団体でも一般にプロリーグが存在するものは、その参加者・構成員のことをプロと呼び、それ以外の競技者は、たとえ国家代表だとしてもアマと見なされる。

陸上やスケートなど、そもそもアマにのみ参加資格がある大会の方が権威のあるパターンも多い。レスリングに至っては、競技としてアマレスとプロレスはそもそも別のものとしてお互い認知しているように見える。

芸能や文壇の世界はまた違うようで、プロとアマの垣根は明確でない。バラエティショーに出演するいわゆる「文化人」は、その世界での権威者であったとしても、タレント事務所に所属していない「アマ芸能人」であることも多い。作家など芸術関係者は一般に、自らの成果物で収入を得たとしても、生計を維持するためにバイトなど副業をせざるをえないことが多いと聞く。この場合、プロとアマの境目はかなり主観的なモノであり、技量差の話をしてもあまり意味が無いように思える。

私の考えでは、プロとアマの違いは技量の差や、収入の多寡ではない。プロと呼べる人だけが持つ「負けの美学」にあると考えている。ここでの負けの美学とは、「勝負に負けた場合でも価値を提供でき、試合を継続できる資質」とでも定義したい。これに対してアマというのは、原則として勝利至上主義であり、アマの大会で負けた選手は凡そ無価値なものとして扱われる。いわゆる「記憶にも記録にも残らない」存在になる。

プロスポーツの世界はどれを取っても、当たり前ではあるが参加者の半分は「敗北者」で構成されている。野球やサッカーであれば単純に半分だが、ゴルフやレーシングスポーツでは一般には優勝者以外すべて負けと扱われる。テニスや格闘技などのトーナメントでも、個々の戦いに勝ち負けはあれど、例えば二回戦敗退者は一回勝っていたとしても初戦敗退とさほど扱いは変わらない。アマのように勝者以外に価値が無い世界であれば、一握りの絶対王者しか生き残れないはずだ(日本競馬界の武豊、F1におけるミハエル・シューマッハのように)。しかし実際は概ねプロの世界はアマより多様な生態系を持っている。万年最下位や万年2位、盟友関係、ライバル争いなどの人間関係が横糸として、優勝劣敗の縦糸とともに編み上げられていく。往年の阪神タイガース浦和レッズ、高知競馬のハルウララのように、勝てていないにもかかわらず人気を集める事すらある。アマは往々にして歴代勝者のみで語り継がれることが多く、「勝者がなぜ勝ったか」という戦術論が話題の中心となりがちだ。

昨今、コンピューターゲームの対戦をe-sportsとしてショーアップしようという動きがある。プロ選手も多数擁立されたと聞く。しかし控えめに見ても日本ではファンの支持が薄く盛り上がりに欠けている。関係者のインタビューなどではこれをプロ側の技量、もしくは意識の問題として批判的に語られることが多いように思う。かたや大会規模、つまり賞金の額が上がればおのずと盛り上がるという意見も聞く。私はそう思わない。いまのe-sportsに欠けているものは正にこの「負けの美学」であり、勝った側ではなく負けた側がいかに自らのパフォーマンスに誇りを持ち、それをファンに魅せられるか、そして負けた側をいかに支え、育て、次の試合に繋げていけるか、という視点を提供できるかにかかっていると強く信じている。e-sportsのプロ選手が口々に語る「勝利至上主義」はアマの思想であり、自らのプロとしての生存環境を締め上げるとしか思えない。

もちろんアマの思想が悪いわけではない。オフライン時代のゲームセンターで繰り広げられたハイスコア競争はまさに1位至上主義であり、勝者の栄誉のみを求めて多くのゲーマーがしのぎを削ったはずだ。しかしそれは長続きしなかった。激しいトップ争いのドラマがあったとしても、それは歴代記録一覧にしか残らない。そこに高額賞金があったとしても変わらなかっただろう。少なくとも参加者にアスリートとしての心意気は生じようがない。いかにして挑み、戦い、魅せられるか。勝敗を超えた何かが語られない限り、e-sportsはただの記録一覧として後世に残るのみとなろう。

 

仕事始め

昨年から引き続いて、昨年からの引継ぎと年末年始の雑感について書き留めておこうと思った。

例年のことではあるが、年末年始休みというものに過大な期待と負荷を載せたうえで、結果としてはあまり気負ったこともできず気がつけばまた日常に流されるという年を重ねてきた。今年はそれでもやろうとしていた事のいくつかは消化できたので良しとしたい。本は一冊読めた。百人一首を覚えるということも4割ほどできた。今回買ってきた百人一首札は、取り札の裏に上の句と決まり字が書いてあり、句の内容に立ち入らず決まり字と下の句を機械的に結びつけるという競技向け対応をしてみた。結局こうしないと、かるたとして取ることが出来ないという事は改めて理解した。あと読経というタスクも実家の仏壇を前にしてこなしてきた。声を出して読むというのはやはりこのテレワーク時代には必要だと思われる。レトロゲームにも多少触れてみた。運動に関してはあまり進まなかった。なぜか1/3朝起きると左手首を捻挫しており、幸先のいいとは言えない年始と相成った。

仕事に関してもスロースタートで進めている。ずっと懸案だったチートシート作成をやってみた。都度システムを引き直して確認する事項を極力メモっておいて参照できるようにすることが目的だが、今までなかなか手が付かなかった。昨年末にも書いたが、やはりアウトプット不足が今の停滞感につながっていると思われるので、引き続き書くという行為を続けていきたい。

備忘録がてら、年始にいきなり小笠原で強い地震があった。気象庁の担当課長の記者会見があり、紙資料をプロジェクタに映して説明をしていたのが好感だった。この手の話で「しばらくは余震にご注意を」のようなことを述べ立てるのが通例だが、彼はその根拠となるデータをなんとか説明しようと資料を並べていた。残念ながら解像度や時間の関係で具体的なロジックは見えなかったが、科学者として根拠の説明をしようという姿勢に称賛を送りたい。

かたや、地震の次の日には北朝鮮から弾道ミサイルが発射されたという報道があった。こちらは悲しくも対照的に、「何がどこに飛んだか」という観測事実に対する物理的な説明がなく、政治的に何が(=飛翔体が)飛んだはずでどこに(=EEZ外に)落ちたはずだという記者発表がなされていた。非常に危険だと感じる。必要な議論は「何が飛んで来たら有事なのか」「どこに落ちたら有事なのか」であり、それぞれ対応を決めるべきものだ。人に向けて発砲したが結果当たらなかったらセーフ、とはならない。核ミサイルを打ってきても日本海の公海上に落ちたならセーフ、ともならないだろう。飛翔体が不明であれば最悪の自体を想定すべきだし、不明でないならそれが何かは言うべきだ。その上で政治的判断をすべきだし国民も許容すべきだ。つまり「弾道ミサイルが打たれたが日本政府として武力行使されたと見なさない」と正直に言えばいいのであって、「何かよく分からないから武力行使ではない」という論理で逃げるのは周辺諸国に誤ったメッセージを送っているだけでなく、認識と判断を混同しているという点で危険だと考える。

今日は関東一円で雪が降るとの事だ。確かに肌寒い。こういう日こそ頭を目いっぱい使いたいものだ。

仕事納め

41歳の春を迎えたことで開設したこのブログも全く更新の無いまままた年を重ねることとなってしまった。2021年も終わりという事で、将来の自分のためにも今年の近況を書き連ねておこうと思う。合わせて今後の展望も書き加えたい。

今年は職を変えて2年目、丸1年を現在の職場で過ごした年となった。職場とはいえ実際は自宅からのリモート勤務であり、記憶では出社したのは今年1回きりである。現在の職場はもともと出入り業者として勝手知ったる場所であり、職務内容も全く新奇なものではなかったためそれほどの苦労もなかった。とはいえそれまでの低負荷低賃金の状態に比べると良くも悪くも時間を使うことが増え、それに見合う以上の給金を得ることが出来ていて大変満足している。最近はまたぞろサボリ癖が抜けなくなってきており、しっかり地に足つけて仕事に精を出したいと思う。具体的にはやはり単なるシステム屋から、データサイエンティストと名乗れるような技能を身に着けたい。基礎となる「統計学」と「プログラミング」をある程度体系的に再学習し、自分なりに消化していかねばなるまい。ここは人の眼が無い在宅勤務のメリットでもあり、逆にプレッシャーを自分にかけ続けていかねばならないという事でもある。必要な道具は揃っておりあとは自身の頭一つ。年末年始にじっくり道筋をつけていきたい。

また今年は自分の人生にとっておそらくターニングポイントとならねばならない重要な宣告を受けた年でもある。糖尿病だ。もちろん以前から危険因子は山とあったが、改めて再検査したところ値が大きくハネており、即インスリン注射と言われても不思議ではない状況であった。実際は投薬と節制で検査値は低下に向かっており、これを続けられれば良いのかと思っている。具体的には体重計を新たに購入し(前の体重計が文字通り配線が腐っており、時間の経過を無惨に物語っている)、毎朝測ってはスマホに飛ばすという習慣がついてきている。ピークから5キロ減ってはいるが足踏みが続いている。合わせて、週2回のプール通いを自分に言い聞かせている。秋から冬にかけてはプールも比較的すいており好都合だ。先週は風邪をひき鼻が詰まってしまい行けていないが、今日この後行く予定である。こちらも下手の横好きとして続けていきたい。

改めて世間に目を向ける。昨年2月ごろから蔓延している新型コロナ(Covid-19)のために日本だけでなく世界中で未曽有の変化がおきている。在宅勤務もその一つだが、マスクの着用も2年目に入っている。日本はなぜか異常にマスクに対する親近感と信頼を持っているらしく、新規患者が増えようが減ろうがマスクを強要する圧力が生じている。感染対策としてはともかく、マスク自体は鼻喉に悪いはずがない。毎年体調を崩しているこの時季でも喉を傷めることが格段に減った。とはいえ息が切れた時や暑いときにマスクは厳しい。状況に応じて脱着する形に落ち着けばよいと思う。

今年はオリンピックが実施された。オリンピックの「意義」を各人が各人の視点で議論し続けた上半期ではあったが、結局それが何かは明らかにされることなく無観客とコロナ患者の爆増をもって無事閉幕と相成った。経済の観点から見れば今大会は明らかに失敗と言ってよいだろう。典型的な埋没費用の過大評価と言え、逆に開催するのであれば(たとえ感染対策という名目だとしても)しっかり客を入れて金を使えばいいものを、実に中途半端なお祭りとなった。あれだけ騒がしかったマスコミも終わってみれば誰も何も言ってない、ということはきっと中止の結論だったとしても同じことだったろう。投じた莫大な費用に対して、はっきりと得をした人があまりにも少ない大会だったのは異論無い。コロナ発生前に問題と思われていた事項、つまり競技場の設計、暑さ対策(マラソンが札幌に移動した)、IT技術の導入(5Gとか)、ボランティアの待遇あたりについては誰かが総括したという話を聞かないままだ。開催可否についてあれだけ甲論乙駁がありながら、具体的な意思決定と効果測定を伴わないのではまた同じ轍を踏むと思われる。少なくとも札幌でのオリンピック開催には反対だ。

ついでに来年は北京にてオリンピックが開催される。こちらも「ウイグルでの人権問題」「女子テニス選手の失踪」に対して「外交的ボイコット」が示唆されているそうだ。原因と結果、目的と手段が何一つかみ合っていないように見える。つまり、落としどころが無い問題(何をもって解決と言えるかが簡単に言えない)に対して、具体的な効果のない対策を打とうとしている(今年の東京オリンピックに政府首脳を派遣していない国は日本に対する意趣遺恨があるという解釈になるか?)。何ならそもそも今後も政府高官をオリンピックに派遣しない方が効率的でいいのではないかという意見も出ていると聞く。少なくとも現時点での見聞では、オリンピックは予定通り開催され、人権問題は特に解決されないであろう(ロジック的には、オリンピックが開催されれば人権問題が解決したことにせざるを得ない)。来年の自分がどう考えているかを問うてみたい。

冒頭でも書かせて頂いたが、公私ともに停滞している一つの原因が、引きこもりに伴うアウトプットの慢性的な不足にあると考えている。小一時間ほど書いているが非常に気持ちが良い。来年はもう少しこのような駄文を残していく機会を増やしていこう。

オンとオフ

引き続き仕事が落ち着かない。つまり、やる事が多すぎて手が回らないという事ではなく、何が出てくるか分からない地雷原を歩いているような感覚に近い。とはいえ、ある程度歩いた範囲も増えてきて、ここから酷い目にも合わないだろうという期待はできる。なのに落ち着かない、という事にむしろ問題を感じている。

在宅ワークが続き、ただでさえオンとオフの切り替えが曖昧になる中で、このような不安定な状況にいる事が、自分の自律神経系に悪影響を及ぼしていると強く感じる。それをダイレクトに感じるのが睡眠の質の悪さだ。とにかく寝られない。寝付きが悪い。そして途中で目が覚める。その眠気を日中引きずる。集中力が落ちる、という構図が見える。結果、仕事への集中力の薄さを寝床で気に病むという悪循環に嵌っている。

全ては気の持ち用だという考えはある。そのためにもこんな愚痴をわざわざ書いているとも言える。何とかこの悪循環から脱却したい。

胃に穴が空いていそうだが、幸い体調は良い。先週から何かの本で読んだ通り、オルニチンのサプリを飲み続けている。オルニチンは体内のアンモニア分解を促進することで肝臓への負担軽減になるらしい。これが原因かは分からないが、軽い運動をしても身体に負荷が乗ってこないように感じる。「体力」というカードが切れるかどうかは、仕事の面でも重要な意味を持つと感じているので、今のうちに動ける体を作りたいと切に感じる。心はオフに、体はオンに、が理想だ。

胃痛と信心

胃が痛い。今までも決して胃腸は丈夫とは言えなかったが、ここまで胃がキリキリと痛むのは初めての経験だった。金曜日のうちにかかりつけ医に診てもらい、十二指腸潰瘍の恐れアリとの診断を受けた。特に検査もなく、痛いと言っている場所からだけの推察だが、どのみちもらえる薬は変わらないだろう。タケキャブを処方していただいた。「胃痛にはタケプロン」だと思っていたが、こちらは一日一回の服用でよいとか。確かに良く効く。大分楽になった。

うちの近所には観光地と言っていい神社がある。薬をもらったあと少し時間があったので、病気平癒と厄除け祈願でお参りに行った。途中メールを見ると、少し厳し目の仕事の催促メールが入っていた。まずい。正直うまく行くか自信がない。情けないがこうなるともう神頼みだ。賽銭を放り込んで、なんとか上手くいくよう頼み込んだ。

以前別の勤務地で仕事をしていた時、職場近くに神社があった。そこはさほど大きな神社ではないが、相撲の巡業の際に宿舎となるらしく有名力士の手型や勧進があった。当時職場に長い時間居たくなかった私は、昼飯のあとにこの神社に参拝することをルーチンにしていた。基本的には日々への感謝と「心安らかにいられますように」という祈願を繰り返していた。決して信心深いわけではなかったが、日々お参りを続けていると実際に気持ちが安らかになる思いがした。何かに向けて語りかけるのはいいことなのだろう。

詳細は省くが、信心を疎かにしてはいけない。結果うまく行ったのだ。もちろん無傷というわけではないが、当面の問題としては回避できたので万々歳だ。その晩、窓越しに神社本殿に向いて感謝の意を伝えた。今日日曜に改めて参拝を済ませ、最大限の感謝と「心安らかに、あと胃痛もなんとか」というお願いをさせて頂いた。