負けの美学

ブログを始めるにあたって下記たかってネタがいくつかある。そのうちの一つについて書き始めたい。自分の考えをまとめるために書くもので、今後何回かにわたって書きたいテーマである。まずその意思表示として本稿を書き上げたい。

 

いろいろなジャンルにおいて「プロ」と「アマ」という区別が存在する。一般的にはプロの方がアマよりも上位とされる。この定義、二つを分ける決定的な違いについては、「技量の違い」「収入(生計)の有無」など色々な考え方がある。例えば囲碁将棋の世界ではプロ棋士の定義がはっきりしており、プロ昇段試験は狭き門であると同時にその腕前を担保するものとなっていると聞く。碁会所の亭主はたとえそれで生計を立てていて、いくらか初心者に稽古をつけているとしてもプロとは呼ばれない。大相撲の世界も同様に、新弟子審査に合格しただけではプロではない。本場所を勝ち番付を上げ、十両にならないと相撲協会から給金は出ないそうだ。それ以下の番付はあくまで研修生扱いであり、手当は出るものの一人前の関取ではないという掟がある。その他スポーツ団体でも一般にプロリーグが存在するものは、その参加者・構成員のことをプロと呼び、それ以外の競技者は、たとえ国家代表だとしてもアマと見なされる。

陸上やスケートなど、そもそもアマにのみ参加資格がある大会の方が権威のあるパターンも多い。レスリングに至っては、競技としてアマレスとプロレスはそもそも別のものとしてお互い認知しているように見える。

芸能や文壇の世界はまた違うようで、プロとアマの垣根は明確でない。バラエティショーに出演するいわゆる「文化人」は、その世界での権威者であったとしても、タレント事務所に所属していない「アマ芸能人」であることも多い。作家など芸術関係者は一般に、自らの成果物で収入を得たとしても、生計を維持するためにバイトなど副業をせざるをえないことが多いと聞く。この場合、プロとアマの境目はかなり主観的なモノであり、技量差の話をしてもあまり意味が無いように思える。

私の考えでは、プロとアマの違いは技量の差や、収入の多寡ではない。プロと呼べる人だけが持つ「負けの美学」にあると考えている。ここでの負けの美学とは、「勝負に負けた場合でも価値を提供でき、試合を継続できる資質」とでも定義したい。これに対してアマというのは、原則として勝利至上主義であり、アマの大会で負けた選手は凡そ無価値なものとして扱われる。いわゆる「記憶にも記録にも残らない」存在になる。

プロスポーツの世界はどれを取っても、当たり前ではあるが参加者の半分は「敗北者」で構成されている。野球やサッカーであれば単純に半分だが、ゴルフやレーシングスポーツでは一般には優勝者以外すべて負けと扱われる。テニスや格闘技などのトーナメントでも、個々の戦いに勝ち負けはあれど、例えば二回戦敗退者は一回勝っていたとしても初戦敗退とさほど扱いは変わらない。アマのように勝者以外に価値が無い世界であれば、一握りの絶対王者しか生き残れないはずだ(日本競馬界の武豊、F1におけるミハエル・シューマッハのように)。しかし実際は概ねプロの世界はアマより多様な生態系を持っている。万年最下位や万年2位、盟友関係、ライバル争いなどの人間関係が横糸として、優勝劣敗の縦糸とともに編み上げられていく。往年の阪神タイガース浦和レッズ、高知競馬のハルウララのように、勝てていないにもかかわらず人気を集める事すらある。アマは往々にして歴代勝者のみで語り継がれることが多く、「勝者がなぜ勝ったか」という戦術論が話題の中心となりがちだ。

昨今、コンピューターゲームの対戦をe-sportsとしてショーアップしようという動きがある。プロ選手も多数擁立されたと聞く。しかし控えめに見ても日本ではファンの支持が薄く盛り上がりに欠けている。関係者のインタビューなどではこれをプロ側の技量、もしくは意識の問題として批判的に語られることが多いように思う。かたや大会規模、つまり賞金の額が上がればおのずと盛り上がるという意見も聞く。私はそう思わない。いまのe-sportsに欠けているものは正にこの「負けの美学」であり、勝った側ではなく負けた側がいかに自らのパフォーマンスに誇りを持ち、それをファンに魅せられるか、そして負けた側をいかに支え、育て、次の試合に繋げていけるか、という視点を提供できるかにかかっていると強く信じている。e-sportsのプロ選手が口々に語る「勝利至上主義」はアマの思想であり、自らのプロとしての生存環境を締め上げるとしか思えない。

もちろんアマの思想が悪いわけではない。オフライン時代のゲームセンターで繰り広げられたハイスコア競争はまさに1位至上主義であり、勝者の栄誉のみを求めて多くのゲーマーがしのぎを削ったはずだ。しかしそれは長続きしなかった。激しいトップ争いのドラマがあったとしても、それは歴代記録一覧にしか残らない。そこに高額賞金があったとしても変わらなかっただろう。少なくとも参加者にアスリートとしての心意気は生じようがない。いかにして挑み、戦い、魅せられるか。勝敗を超えた何かが語られない限り、e-sportsはただの記録一覧として後世に残るのみとなろう。